Peter Ilyich Tchaikovsky / ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーの生涯を紹介します。
出生: 1840年5月7日 ロシア帝国 ヴォトキンクス
死没: 1893年11月6日 ロシア帝国 サンクトペテルブルグ
職業: 作曲家

・Tchaikovsky : チャイコフスキーの作品のまとめサイト : 100Tchaikovsky.com

1840年、ロシアのウラル地方ヴォトキンスクで鉱山技師の次男として生まれる。チャイコフスキーの家系は現在のポルタヴァ州に領地を持っていたウクライナ・コサックのチャイカ家に出自を持つ。幼少のころから音楽的才能を示したが、両親には息子を音楽家にする意志はなかった。
10歳: サンクトペテルブルクの法律学校に寄宿生として入学させた。
14歳: 1854年、コレラに罹患した母親が40歳の若さで亡くなり、チャイコフスキーは大きな打撃を受けた。
19歳: 1859年、法務省に勤務する。
21歳: 1861年、アントン・ルビンシテインが設立した音楽学校に入学。
23歳: 1863年、法務省の職を辞して音楽に専念。
26歳: 1866年、交響曲第1番『冬の日の幻想』(作品13)の初演、初のオペラ『地方長官』を完成。同年、アントン・ルビンシテインの弟、ニコライが創設したモスクワ音楽院に講師として招かれる。
28歳: 1868年、オペラ歌手デジレ・アルトーと恋に落ち、毎晩、彼女の元へ通うようになる。この事が誰の目にも明らかになり、チィコフスキーは、自分の父親に結婚したい旨を手紙で書き送る。婚約にまで至るが翌年破局。
35歳: 1875年、ピアノ協奏曲第1番(作品23)を作曲。初演を依頼したニコライ・ルビンシテインの酷評を受け、ハンス・フォン・ビューローに楽譜を送る。ビューローによる初演は大成功し、ヨーロッパの各都市で演奏された。ニコライはチャイコフスキーに謝罪し、自らもこの曲を演奏するようになった。
36歳: 1876年、富豪の未亡人ナジェジダ・フォン・メックから資金援助を申し出られる。チャイコフスキーとの間には頻繁に手紙が交わされたが、2人が会うことは一度もないまま、この交際は14年間にわたってつづいた。このころ作曲された交響曲第4番(作品36)はフォン・メック夫人に捧げられた。またトルストイとも知り合う。
37歳: 1877年、アントニナ・イワノヴナと結婚。この結婚は失敗し、チャイコフスキーはモスクワ川で自殺を図るほど精神的に追い詰められた。バレエ『白鳥の湖』完成、オペラ『エフゲニー・オネーギン』完成。

38歳: 1878年から約10年間、ヨーロッパ周辺を転々とし、大作から遠ざかる。『弦楽セレナード』(作品48)、大序曲『1812年』(作品49)が書かれる。
41歳: 1881年、友人ニコライ・ルビンシテインの死。彼の死を悼んでピアノ三重奏曲(作品50)の作曲を着手する。翌年完成し、ニコライの一周忌に初演。原稿には”A la mémoire d’un grand artiste”(ある偉大な芸術家の思い出のために)と書かれていた。
48歳: 1888年、交響曲第5番(作品64)完成。バレエ『眠れる森の美女』(作品66)完成。この年と翌1889年はヨーロッパ各地で自作の演奏も行う。この際ライプツィヒで、かつての恋人デジレ・アルトーと旧交を温める。
50歳: 1890年、フォン・メック夫人から財政援助を打ち切られる。
51歳: 1891年、バレエ『くるみ割り人形』(作品71)作曲。アメリカに旅行、カーネギー・ホールのこけら落としに出演。
53歳: 1893年、交響曲第6番『悲愴』(作品74)初演。それから9日後の11月6日に急死。死因には諸説があるが、後述するように現在ではコレラ及び肺水腫によるものとされている。

出典: ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーのWikipedia

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